高校の思い出

2015年10月27日火曜日

昔の記憶 徒然・駄文

中学3年のはじめ頃に友人が塾へ行っているのに釣られて自分も塾に行き始め、なんとか高校に受かる頭までになりました。
それまでは全校生徒160人中100番以下は当たり前。
テスト勉強のやり方が身についたのはそのぐらいだったのではないでしょうか。

高校入った直後の春休みに出された宿題の確認テストでは周りはだいぶ散々な成績だったようです。
これが「入学=ゴール」と思ってしまう人が多い現状なのかと当時も少し思っていたところがあります。
私が通ってた高校は成績上位者を貼りだすという慣例があり教科別でも乗っていると嬉しいものです。
また、校内英単語コンテストというものもあり、あれでは全部の回で乗ることが出来たかと思います。
私は1週間で覚えてたタイプなのですが、2週間で覚える友人や3日前に覚える友人もいまして後者の友人も毎回載っておりその頭欲しいと思っていました。

私のクラスは理数コースというものだったのですが私達の代で廃止になるということでした。
数学と理科の時間が多めと言うことで理系好きには嬉しいクラスでした。
中学の時理数コースのことを「理数科」って言ってて当時の担任に指摘されたりもしました。
部活は「理科部」、科学部とかではありません。
部活見学の時に化学室の扉の前で立つ人物と出会いかなり仲良くなりました。

私+彼+もう一人で高校生クイズの予選にも出ましたがもちろん予選落ち。
もう一人の友人は最初乗り気でしたが何故か開催間近に行きたくないということを言い出しまして、なんとか説得?出来て行けることに。
場所は西武ドーム、その周辺では以前ゲーム展示会が開催されててバーチャルボーイのドラえもんの未発売ゲームをプレイしたりもしました。
ジェットコースターのシーンだったかと思います。
その時だけは何かの記念で5問全部参加可能、途中脱落はなしと言う仕組み。
正誤の記録は入り口で1チームに一つ渡された丸いうちわで記録。
正解だと思う数字を切り取り制限時間内に上に高く掲げます。
実際の放送だとカットされてますがやっぱり不正は何チームか出てしまうようで、当時の司会の福澤朗氏も注意する声は暗めでした。
出されたクイズはこれですね、6問以降は多分通過したチームだけなんじゃないかと思います。

1年の時の体育祭は風邪で休み、2年はよく覚えていなく、3年の時は大雨でランチョンマットをとある友人から借りて後者まで走りました。
とある友人から「透けブラ」と、出会った当初なら言いそうにないセリフが聞けたのも面白かったです。

後輩ができてから図書室でウォークマンの話が出ていて持っている型番が全く一緒でした。
持ってたのはソニーの「NW-E5」と言う96MBしか入らず今の時代到底考えられない容量でした。
一応限定モデルらしく「容量が中途半端だな」ぐらいしかあまり違いはないんじゃないかと思っていました。
ちなみにこれはヤフオクで売りました、当時「どの辺が限定モデルなんですか?」って聞いてきた人に売ったのかと思いますが今どうなっていますかねぇ。
図書室は他に予防注射したり心電図取ったりと身体検査の部屋としても使われた事があります。
肩に注射されるっていうのは慣れないものです。

生徒会室にも3年ぐらいにクラスメイトが生徒会長になった縁もあって入り浸っていました。
球技大会のアンケートは表向き取っていましたが実は取る前からすでに決まっていると言うことで「適当だなぁ」と感じていました。
生徒会室のパソコンには先代の生徒会メンバーがWindows2000を突っ込んでいたみたいですが、2台とも同じシリアルナンバーだった事を数人で確認して「これあかんやろ~」と言う話もしました。
3年の頃別の高校に行ってる友人がサバイバルゲームをやってるとか言う話になり私もエアガン1丁買いまして、生徒会入り浸りメンバーにもけっこうミリタリー好きが多かったみたいで的当てけっこうやってました。
生徒会長の先輩は写真部の部室でゴキブリをガスガンか何かで撃って大変なことになったと言う話も印象深いです。
あと、生徒会室にガンダムのジオン軍の国旗持ってきてる人もいましたね(笑)

部活では色々実験をやりましたが一番面白かったのはテルミット反応です。
詳しくは忘れましたが上の方に酸化鉄とかを混ぜ、マグネシウムリボンで点火、下に真っ赤に溶けた鉄が落ちるというやつです。
見た目が派手で一見の価値はあります。
振動現象?と言う液体が七色に変わるというのを先輩が文化祭のために準備していました。
かき混ぜておくだけで色が変わり続けるというのが面白かったです。
二つ上の先輩はミョウバン?の結晶を作っていて「ドラフト」と呼ばれる装置の所に保管していました。
今から数年前に文化祭に寄った時はドラフトがだいぶ綺麗なものに新調されていました。
他にも色々ありますが、ニトロセルロース、友人が作っていたわたあめ製造機、ファイバースコープetc.
変圧器か何かのヒューズを飛ばしちゃってとりあえず放っておいてしまったなんてこともありました。

実験以外で面白かったのはやっぱりプラネタリウムです。
化学室入って対角に位置する天井に半球形のドームをぶら下げ、周りを暗幕とダンボールで隙間を埋めプラネタリウム室を作りました。
毎年の恒例だそうで1年生が星の配置・神話、を覚えるのだそうです。
先輩のメモを見せてもらい自分たちで手書きで写し、暗記したものです。
そこでの記憶が今のヘタレ星好きとして残ってるのかも知れません。
3年の時は後輩が確か1人と少なくプラネタリウムが出来ませんでした。
後年、文化祭に行ってみた時やっぱりプラネタリウムはなくちょっとさびしくなりました。

星繋がりで泊まりこみの天体観測も楽しかったです。
徹夜は初めての経験でしたので貴重な体験でした。
直径20~30cmぐらいの望遠鏡で星を見たりもしました。
あんまり見た記憶はないですが、校舎の向かいにあるレストランのお客さんの顔がはっきり見えるぐらいの性能だったことは覚えています(笑)
「あんまりそっちは向けないようにね」と先輩に注意されたりもしました。

私のクラスの担任の先生は数学担当でした。
しかし、理想がだいぶ高く実力テストでかなりの難問を出してしまい結果にだいぶショックを受けてたようです。
あまりのショックからかその先生は私達のクラス以外でだいぶ弱音を吐いていたようでいつの間にか心労?で学校では見かけなくなってしまいました。
卒業までに何度か先生がどうなったか聞いてみようとしましたが結局はっきりとしたことは何も分かりません。
その先生がいなくなったあとは「マリオ」と言うあだ名の先生が来ました。
名前のとおりマリオそっくりの見た目でした。
後から来た先生はだいぶ大雑把な性格だったのでクラスのみんなからはだいぶ人気がありました。
前の先生はちょっと熱血すぎたのかあまり好かれてはない感じでした。
まあどっちの先生もポリシーが違ってたまたま生徒に好かれる性格だったかそうでなかったかの違いでしょう。

その頃私はパソコンを所有して4年経っていました。
その頃になるとパソコンもだいぶ普及してきたのかクラスでも持っている人が結構いました。
その頃流行ってたものの一つは「偽春菜」ですかね。
「何か」に名前が変わって、今では「伺か」が正式な名前なのでしょうか?
名前だけですが攻殻機動隊というのもその頃初めて知ったのかと思います。
また、その頃流行り始めた?18禁ゲームを学校休んでも買いに行く熱心なクラスメイトや、テーマソングを昼の放送でかける強者もいました。
当時まだプレイしたことがなかったのですが音楽がやたら良いんですよね。
その頃ぐらいからそっち方面の知識が身についてきたのかと思います。
あまり興味が無さそうだった友人が「もっとLOVE CHU!」と言う音楽CD買うまでにしてしまったのはきっと私のせいです。
彼は今は亡きSOTECのパソコンを検討していたようですが、結局それを買ったんだったかどうだったか。

体育の時間は柔道と言うのがありました。
受け身とかけっこう痛いのであまり好きではなかったかと思います。
ソフトボールでは野球部で一人熱心すぎる奴がいまして彼からはかなり下に見られてましたね。
説明が適当過ぎるので全く理解できず、ソフトボールも微妙な時間でした。
彼とは別で私がバッターの時うっかり手が滑ったのか後ろにバットを飛ばしてしまい危うく他の人にケガをさせそうになったこともあります。
あの時は大変申し訳ありませんでした。
あと、鉄棒をやってる同級生が地面に降りた時に変な降り方をしたのか骨折で運ばれていったなんてこともありました。
現在の私の状況と照らし合わせると「運動不足だなぁ」なんてことは言えません。

時々私にシャーペンを借りに来ていたクラスメイトがいました。
彼はやたらと「ネームバリュー」と言う言葉にこだわってまして、けっこう上のランクのところへ行ったようです。
結局シャーペンを1本返してもらっていなく、教室の床にキャップだけだったか本体だけだったかが落ちているのを発見しました。
修学旅行の部屋分けで彼だけ話し合いに乗ってこないので、「仲が良いグループ+空き1」「その他」と言う分け方になってしまい、担当の私が途方に暮れて困っていると一人移動してくれる人がいてとても助かりました。
やはりこういう時に協力してくれる人がいるととても心強いです。

クラスでは漫画の回し読みもけっこうありました。
赤松健作の「ラブひな」が何故か流行ってまして、今読み返すと大して面白く無い(失礼)んですが、卒業後にそのカラー版が出ましてそれを買うので白黒版はいらないという友人から14冊+パソコンソフトを1000円で譲ってもらいました。
そういう系統の漫画を本棚に配置するのはだいぶ躊躇われたので当時はタンスの上の扉の中に仕舞っていたのですが今では私の背後の本棚に収められています。

一番驚いたのはドラえもんでお馴染みの「大山のぶ代」さんが講演会をしてくれたことですね。
普通のトークの内容はさっぱり覚えてないのですが、どこぞの誰かがドラえもんの声真似をしてるのを注意したりとか、最後にサービスでドラえもんの声をしてくれたりとかあって、帰りは生徒たちが窓から見送る中車でお帰りになられました。
あの時生徒会室に飾られていたサイン色紙はどうなったのやら。

3年のいつだったか、友人が大学進学を辞めて代アニ行くと言い出した頃からか、私も自分でも絵を書こうと思いクラスメイトに見せていたこともありますが今見返すと「良くこんな子供の落書きにも劣るような物を見せて感想求めてたなぁ」、とかなり恥ずかしくなります。
漫研にノリで入ったりもしましてちゃんと卒アルにも載っています。
漫研の出し物のために日付変わるまで起きてて絵を仕上げたこともあります。
もちろん出来は一番下ですけど、「こんな奴も漫研にいるのか」「なら俺もやってみるか」と言う人が一人でも入っていたら嬉しいです。
友人二人も出していましたがかなり上手かったです、特に代アニ志望の彼は「本当に今まで大学志望だったんだっけ?」とだいぶ疑問になるぐらいのレベルの高さでした。

だいぶ長くなってしまったのでそろそろ締めます。

最後に話すのは卒業式のこと。
その頃は間質性膀胱炎打ち明けから2ヶ月ぐらいで卒業式という長丁場に耐える自信は全くありませんでした。
なので、2日前から風呂に入って上る前に体を冷やして風邪をひこうと試みました。
狙い通り風邪は引けましたが母から「ちゃんと行って来い」と言われたため結局行くことに。
まあ、なんとか耐えることが出来たし思い出も出来たので行ってよかったなと思います。
教室を最後に出る時ちゃっかり誰かのカメラに映り込んだりもしましたね。

思い出を共有している人がいたらもっと長く語れそうなので、新しい人と会うのも良いですが同じ時間を共有した人ともまた会ってみたい物です。