自分が見えているもの・見えていないもの

2015年11月1日日曜日

感じた事・考えたこと 徒然・駄文

一日遊学体験の英会話行ってきました。
あまり期待してたほどの内容ではなかったのですが貴重な時間でした。

今日みたいに講師の先生や参加している皆さんも一人の人間ですから、私が見えていない所で笑ったり悲しんだり苦しんだりしているはずです。
でも、そういうのを理解していても全く同じことを経験することは出来ませんから真の意味で相手を理解するのは不可能です。
どんなに頑張っても「共感」が精一杯です。

一方、自分自身は一番近くで喜びも悲しみも体験してるわけですから凄い強烈な記憶として残ります。
あまり人の弱い部分を見る機会は無いので自分ばかり苦しい目にあってるんじゃないかという気分になってしまうんですよね。
もちろんそんな訳無いのは分かってるんですよ?
でも、「周りのみんなが楽しく人生を過ごしているのにどうして自分は「人生」を楽しく過ごすことが出来ないのか?」と強く感じます。


昔から友だちと遊ぶ時は誘われて自分が出かけるか自宅に友だちを呼ぶか、ほぼこの二つで占められてます。
けど、小学校の時は意外と友達の家に遊びに行く機会は多かったのです、今の状況から考えると凄い違いです。

小学校よりもっと行った所にある友達の家で、両手のトリガーで操作して胸辺りにあるスイッチを押した方が勝ちというおもちゃであそんだり、
家が床屋の友人宅は特に行った所で、そこで髪を切ってもらったあとよく2回に上がって遊んでいました。
牛乳瓶の蓋を大量に集めてる友人や、一度だけ泊まりに行ってカレーの中辛を食べて今まで甘口しか食べてこなかったので辛さに驚いたり、夜遅くまでスーファミで遊んだりもしました。

この自分から誘わないという性格は今はだいぶマイナスに働いている気がします。
就活で面接に行けるという日は年に3回ぐらいですので、「久々に生身の人と話せる!」という気分だったのではないでしょうか。
自分でお願いして行っているので自分から誘ってるじゃないかという感じもしますが半強制みたいなものなのでその性格の性質とは違う認識だったのかもしれません。

今は疎遠になってしまった友人と時々会ってる友人に高卒後数年経った時にプールへ連れて行ってもらった時、
「ありがたいなぁ」というようなセリフを言ったのをよく覚えてます。
あんな状況の自分を励ましてくれる人物がいるというだけでも救われていると思わなければなりません。
「こんな無職野郎と付き合って何が面白いのだろうか?」と考えることもたびたびありますが、会ってくれるだけでありがたいことなんだなと思います。

有名人や芸能人はもちろん、見知った景色に映る一般の人々をテレビ越しに見ると「この人達とは一生関わり合いにならないんだろうなぁ」とよく感じます。
コミュニケーションを取ってこなかったのが最大の原因だというのは分かりますが、果たして仕事に就けていたとした場合は一体どういう気持ちでテレビを見ていたのだろうか?という疑問がわきます。
それはタイムマシンでもない限り分かるはずはないんですけども・・・
ここの所イベントに行ってもだいたいそんな感じなので、「自分以外の他人も自分と関わる可能性のある人間なのだ」と感覚的に理解できるように早くなりたいです。

だいぶ前の記事に場面緘黙の話をしましたけど、上に書いた床屋の友人宅でどうしてもトイレが我慢できない時がありまして「トイレ貸して」というたった一言が言えず間に合わなかったことがあります。
もうこの頃からそういう気質はあったのだなと感じております。
今日の講座の時にだいぶ腹の調子が悪かったのでトイレに行けたのですが、気分悪くなってから1,2分で行けたので良かったです。
昔なら「終わるまであと○○分・・・」と言ってずっと耐えてたかと思います。

40人クラスで自分以外の誰かがトイレに行くのは40分の1であまり気にならないですが、自分がトイレに行くとなると40人+全員の目が向けられてる気分になるので全然行けないですし途中で話の腰を折るのもどうか?という考えが巡ってしまいます。
けど、例えそうだったとしても「死ぬわけじゃない」と強く考えるようにして自分の身体を一番に考えようと努力しています。

自分だけ覚えてることの話をすると実際に体験したことなのか?勘違いなのか?結構自信がなくなります。
もう一人自分がいてくれたら話は弾みそうですがその記憶が正しいかの証明にはなりませんね。
一緒に同じ空間を過ごした人たちともまた会って色々話をしてみたいものです。