国立相模原病院の思い出

2015年5月26日火曜日

健康・持病(間質性膀胱炎など) 昔の記憶 徒然・駄文

今では「独立行政法人国立病院機構 相模原病院」という名前になってしまいましたが、通い始めた当時、2003年は「国立相模原病院」でした。

あそこは駅から結構遠くてバスは出ていたんですがバス代がもったいなく感じて15分ぐらい歩いていました。途中、古本屋や中古家電やガラクタが置いてある店は結構行ったと思います。

病院近くになるといきなり薬局の数が増えまして、病院前のバスの停留所から見える範囲で少なくとも5ヶ所はあったかと思います。私が薬をもらっていたのは一番病院寄りにあった「アイ調剤薬局」です。あそこの人で覚えてるのはちょっと若目の20~30代ぐらいの男性の方です。毎回行くとだいたいその人で話し方からも真面目そうな人だという雰囲気が漂ってました。あと、そこにはコンビニにおいてあるような缶ジュースを入れる箱がおいてあり、薬局を利用した人ならば1本自由にもらえるというサービスがありました。私はあまりジュース飲まないタイプだったので家族用に缶コーヒーをもらってくることが多かったです。

相模原病院の中は入り口入ると警備の方がいるカウンターがあって、右側が会計などの受付。ちょっと行って左側が泌尿器科の待合室だったかと思います。ちなみに、泌尿器科の向かいが小児科で、待合室の上にはテレビが設置されていて子供向けの番組、「きかんしゃトーマス」と「アンパンマン」がメインで流れてたと思います。採血室も近くにあったと思うのですが泌尿器科から更に奥に行った所のように記憶してますが定かではありません。採血室を出てすぐ左には自動ドアがありました。

初めて相模原病院に行ったのは2003年のゴールデンウィークであの時は間質性膀胱炎のことをインターネットで検索して藁にもすがる思いで山田先生の所へ行ったものです。予約なしだったにも関わらず診てくれた先生にはとても感謝しています。その年の8月に入院することになりまして、手術前には股間の毛を看護師さんに剃ってもらうというかなり恥ずかしい経験もありました、当日は浣腸もされてあの感触はあまり体験したいものではないですね。手術後数日ベッドから動けない状態が続いてかなり苦しかったです、背中のあたりから麻酔を入れる管みたいなのが刺さっていました。麻酔科の先生は女性だったのですがかなり若そうな方で「こんなに若い人もいるんだな」と思っていました。入院生活は退屈でしたがその頃囲碁を覚え始めた頃でしたので「依田ノート」を読んだり、碁盤をわざわざ持ってきてもらったりしていました。

入院中にアレルギー検査をするため腕に9ヶ所ほどアレルギー物質を入れる注射をしたのですが何かに反応したのか足が震えて立てなくなってしまったことがあります。あの時は近くのベッドまで連れて行ってもら居ました。あの時の感覚はかなり怖かったです。

今はだいぶ緩和されてきましたが、病院内での携帯はご法度でした。私が入院していた部屋の向かいに居た方が何度か看護師さんに見つかって怒られていたのと、逆ギレしてるのをよく覚えています。その頃私も初めての携帯を持っていまして型番はn503iで色がインディゴというやつでした。色名は今調べました。そして夜に携帯使用可能の場所に移動してメールをしていました。

病院食は食べ慣れていたので結構好きな味が多かったのですが、退院数日前に食べたとある魚料理がすごく美味しく感じ思わず食事アンケートに感想を書いて投函しました。退院当日に調理をする方が来てくれてお礼を言われまして、わざわざ来て頂いてとても嬉しかったです。退院日は確か父と母、両方が来てくれたような気がします。

その後4年通院することになります。最初の頃は母に付き添ってもらってましたが山田先生にたしなめられたので途中から一人で通うことに。あの頃の家から片道2時間は相当きつかったですが12年近くあの周辺まで行っているとさすがに慣れました。先生にはお腹側と背中側に貼り付ける電気治療マシーンのようなものまでタダで貸してくれて、確か数千円ぐらいするものだったかと思います。

最寄り駅は小田急相模原で、あそこの露天で風呂の排水口の栓の鎖を買った記憶があります。当時駅は開発中で工事車両が近くを出たり入ったりしていました。山田先生が自分のクリニックを開院する頃まで開発は続いてたかと思いますが完成したところは恐らく見ていないと思います。そこまでの電車賃は運賃改正前ですので910円でした。